“トピックス”

第56回JA全国青年大会を開催ーJA全中会長賞を受賞した西山氏の発表

僕は5代目 ~父とのつながり。人とのつながり~

【JA京都にのくに青壮年部】西山 和人

抜けるような青空を見つめ、悟ったようにほほえみながらベッドの上で父はつぶやきました。

「こんな、はようあかんようなるなんて、くやしいのぉ。」

一週間後、父は50年という短い生涯と25年の農業人生に幕を閉じました。そんな父が、「農業」をする中で一番大切にしていたのは「人と人のつながり」でした。 

私は京都の北、おだやかな里山の原風景が広がる綾部市で、コシヒカリと酒造好適米五種類を含めた計8品種を栽培する米農家です。稲作には不利といわれる中山間地域で、経営面積は12.5ヘクタール。植え付け時期の違う品種を複数栽培し、秋の作業効率の向上と異常気象や台風などへのリスク分散、さらには多様な販売先の獲得を狙った水稲の複合栽培を行っています。

私は先祖代々農家の5代目、長男として生まれました。昔から葉たばこを中心に露地野菜、ハウス野菜、水稲を組み合わせた経営を行ってきましたが今から16年前、国産葉たばこの不振により、現在のような水稲中心の経営形態となりました。

こんな家庭に育ってきましたが、私は「農業」が大嫌いでした。休みらしい休みはなく、ゴールデンウィークや夏休みなどにも出かけた記憶はほとんどありません。そして車はぼろばかり。親が口を開けば「あー、金がない。金がない。」子ども心ながら、農業は貧乏な仕事なんやなー。めっちゃしんどそうやのに、と思っていました。

しかしながら、大学の進学も許され、あこがれだった一人暮らしもさせてもらえました。小さい頃から何でも与えられたわけではなかったのですが、その時改めて何不自由なく育てられてきたことに気づいたのでした。そして父は、あとを継いでほしいとは一言も言わず、大きな設備投資もせず、黙々と自分の農業を追い求めていたように見えました。

そんな父を見て、「農業」を職業として意識し始めながらも、私は大学で専攻した「幼児教育」という道を選び、念願の幼稚園に就職しました。しかし、考え方の相違で上司と対立、それがあだとなり、わずか1ヶ月で解雇。私は「もう人に使われる仕事なんかしたないわ。しんどそうやけど生き生き仕事しとる親父と一緒に農業したほうが楽しいかもしれんなぁ。」そんな風に思い、早速、その事を打ち明けました。父は特に喜んだそぶりも見せず、「わかった。」と一言だけ答え、そのあと「人にはつかわれへんようなるけど、人と人のつながりを、これまで以上に大切にせなあかんで。」そう続けたのでした。

その日から父と一緒に田んぼ出るようになり1年、少しずつ「農業」がみえてきはじめた、そんな矢先でした。これまでの日常が一転してしまうことが起こったのです。父のガン発病でした。全治を願った必死の闘病生活でしたが、進行が恐ろしく早く、50歳だった3年前の5月に亡くなりました。

日ごとに元気がなくなっていく父を見舞いに行ったその「一週間前の笑顔」の日、父は先ほどの言葉を残す前、実はこうも言いました。「俺になぁ、万が一のことがあったときのために、これから農協行って、おまえが担い手でやっていくにはどうしたらええか聞いて来い。一番世話になる青壮年担当にだけ話してこいや。」覚悟を決めたような一言を聞いて不安になった私は、すぐに農協へ走り、担当の方にすがる思いで父の病状を説明し、これからの事を尋ねたのでした。父からきつく口止めされていて、当時誰にも病状は明かしていなかったので担当の方は大変びっくりされました。その時の顔は今でも忘れられません。

父が亡くなったのは5月。本当に田植の真最中でした。そのころはまだ、機械の乗り方くらいしか教えてもらっていなかった私は、農家としては素人も同然。籾の催芽の仕方も、病気が出たときの農薬の選び方も、全くわからない状態でした。そして年齢(とし)は26歳。経営者として、また大きな契約先に迷惑をかけないような営農をするには若すぎました。すべてが不安で、押しつぶされそうになり、「あかん。もうやめよう。親父には悪いけど今年でうちの農業はおしまいや。」毎日そう思っていました。

しかし、そんな弱気な私を自分の事のように気にかけてくださったのは、農協の方々と青壮年部の皆さんでした。ほとんど裸同然で農業という世界に飛び込まなくてはならなかった私にとって、栽培管理への的確な助言と心温まる励ましの言葉はこれまで感じたことのないくらい力強いもので、それが初めて、あの日父が言った「人と人のつながり」を肌で感じた瞬間でした。

父の死から丸3年が経とうとしています。その間、父が続けてきた農薬や化学肥料に頼らない米作りにさらに力を入れて取り組み、平成19年の9月、当時全国最年少で水稲による有機JAS認定を取得しました。また、京都伏見の招徳酒造契約栽培農家として酒米作りもさらに規模拡大し、農薬を一切使用せずに栽培した日本晴のみを使った酒として「招徳 西山」という名前の純米酒を売り出しています。

当初9ヘクタールあまりだった経営面積も14ヘクタールに迫る勢いで拡大しています。そして昨年、在りし日の父の姿にあこがれ、心から楽しめる仕事をしたいと弟も就農し、兄弟二人での経営になりました。若い農業者が、高齢化の進む地域で「農業」をしていくことは、「生活のために働く」というだけでなく「地域を守る」ということも必然的に担うことになります。

若さ故に少ない経験、技術の未熟さ、そしてジェネレーションギャップ。父より年上の年代とまともに渡りあうことに、正直なところ非常に難しさを感じています。でも、若い自分たちにしかできないことが必ずあるはず。困難の裏にはきっとチャンスが隠れていると信じ、楽しく農業をしていきたい。そして、同じような若い農家が勇気をもち、行動を起こしてくれることがまた新たな「つながり」を生むのではないか。そんな「つながり」を農協や青壮年部さらには地域に広げていくのも今度は私の役割です。

父が旅立った日からちょうど二年後の昨年五月、息子が生まれました。その息子が大人になったとき、私がそうだったように、「なあ親父、俺、農業したいんやけど。」米を作る私を見てそう言ってくれたら最高です。

あの日の父の姿はもうありません。しかし目をとじると私には今でもしっかりと見えています。「人と人のつながりがいちばん大切なんやで。」と語りかける父の姿が…。

父とのつながりで、いつも私に力を貸してくださるすべての方々に感謝しています。

最後に、生きている間に言えなかったので一言だけいわせてください。

親父ほんまにありがとう。俺、がんばるでな。